top of page
武宮分教会の起こり

 谷澤新七、くら(通称たに)の夫婦の間に長男善次郎を与えられしも、夫新七は二十七才の若さで出直し、女手一つで姑(かめ)との、三人の生計を立てておりました。明治十五年春、砂川村の小林家から、春吉三十一才を、くら、二十五才は夫として迎えた。翌十六年長女(うめ)を、二十三年には次男(武助)を、二十六年六月十八日三男(末松)をもうけ、子供の成育を楽しみに日を過ごして居る中、長女(うめ)の身上(神経病)となる。医者に又祈祷にとお願いしたるも、快方に向かず。かかる状況の折、明治二十七年十一月天理教御所見布教所、所属布教師、石井作兵衛氏の来訪があり、結構なる神様のお話を聞き、春吉、くらは感服し、特にかしもの、かりものの理、八つのほこり、因縁の理の恐ろしさを聞き分け、即日入信を決意。(うめ)は日ならずして不思議なる御守護を戴いたのであります。

 「うめ」の身上を御守護戴いてからは、春吉、たにの夫婦は近隣一帯に御守護戴いた事実のお話を台とし、又石井氏より聞かして頂いた神様のお話を取り次ぎ、にをいがけに精進したのであります。

 明治二十八年四月三日、大神様を谷澤家にお祀り込みさせて頂き、信仰の炎は益々燃え上がつたのであります。 にをいの親である石井氏は一層の修行をさせて頂いてくると、暇乞いに来られました。春吉は留守中は、わしら夫婦心を一つに合わせ、にをいがけさせて頂きますから安心してくださいと、しかし今日の所は暫く待って頂きたいと、作りかけの草鞋を投げ捨てて、自分の実家のある西砂川へ走り、浦野慶次郎、浦野源三郎のふたりを、更に二回目には小林安五郎、神田政吉、森田三次郎等の友人に、にをいをかけ、その日の内に二宮へ連れ帰り、石井氏により神様のお話を聞き、かんろだいの石で撫でて頂き、皆御守護を戴き、石井氏も安心して、おぢばへ出発したのであります。

 

武宮の前身たる多摩宮出張所の設立

  春吉夫妻は、昼夜の別なく一心不乱に、にをいがけに勤め大いなる発展を見させて頂きました。一度もおぢば帰りをしていない春吉に対し、明治二十八年六月二日、天竜講取締まりとしての辞令を受け、二十九年には先夫の子、善次郎にも天竜講取締まりの辞令を頂き、更に二十九年二月九日、春吉及び神田政吉に対し、天竜講講元の辞令を下付され、春吉は二十九年三月二十三日初席を受け五席運び、三人の子供のお守りを頂いて帰郷。春吉夫妻は益々信仰に拍車をかけ、浦野福太郎、滝島鉄太郎、黒田太之吉等を初めとして、隣村は申すに及ばず、小河内、日原、氷川方面へ、又埼玉県高根方面へと布教地を拡大し、谷澤春吉、神田政吉の両名は二十九年十一月二十四日、尊きおさづけの理を拝戴したのであります。

 かかる状況から上級より教会設立の御命を頂き、理の親である石井作兵衛先生を立て、設立者兼担任教師として、東秋留村二宮二三五七番地谷澤春吉宅に、神道天理教会島ヶ原分教会多摩宮出張所の設立を願い出、明治二十九年十一月二十六日

 さあさあ尋ねる事情さあさあ事情は願い通り許し置こう許し置こう。とお許しを頂き、同日地方庁出願の願、 さあさあ尋ねる事情、事情は直ぐと直ぐと。とお許しを頂き、三十年一月十一日地方庁の認可を受け、名実共に、道一条に立ち切り春吉夫婦は一つ心に勇み立ち、真剣に勤めに励まれたのであります。

 

迫害、圧迫と春吉の出直し

 春吉夫婦は「息ある者なら助からん者はない」との信念の下、伝染病で苦しんでいる家へも、人目を忍び、夜の丑満刻におさづけにはこび、ある者は自ら背負って教会へ連れて来ておさづけを取り次ぎ、親神様の御守護を戴いたのであります。

 しかし、この頃より官憲の圧迫又、地元の迫害、罵詈雑言も厳しくありしも、助け一条に燃える春吉には、火に油を注いだように圧迫、迫害が加われば加わる程、にをいがけ、おたすけにつとめ、又信者の丹精に力を尽くし、滝島与兵衛は明治三十一年十一月二十四日おさづけの理を頂き、三十二年四月一日付で谷澤たに、には天竜講婦人会担当教師を拝命、

益々信仰に拍車をかけ、明治三十三年春、居宅二十七坪、宅地一反六畝を売却、教祖ひながたの万分の一でもと、道の上に伏せ込ませて頂いたのでありますが、このままでは親神様、教祖にお鎮まり頂くことも出来ないことから、板葺き屋根の古屋を求め移築してお祀りし、おたすけに東奔西走して居りましたが、春吉も又伝染病に冒され、村立病室に強制収容され、五日にして、四十九才を一期として、明治三十三年九月十六日出直ししたのであります。時に長男善次郎、二十四才、長女うめ十八才、次男武助十一才、三男末松九才、次女イト三才でありました。

 

貧のどん底へ

 付近ではこれで天理教も潰れるだろうと、噂しており、隣家組合の方々は、、天理教の信心を止めれば良し、止めなければ村の付き合いを外すと、強談判に来ましたが、「たに」は泰然自若として之を聞き流しました。組合の方々は「たに」の実家へ行き「たにさんを引き取ってもらいたい」と談判に行ったところ、実家の黒田太之吉氏は 「妹たには、谷澤春吉にくれたものであって組合の方々にくれたのではないから、春吉が返しに来れば、引き取らぬでもないが、組合の方からなんと言われても引き取ることは出来ません」と断られたので組合の方々は、致し方なくひきさがったとのこと。 「たに」はこれでこそ教祖の雛型の万分の一なりと踏ませて頂く事が出来ると、喜び勇んで、村人の談判にも応じなかったのであります。近所からは狐狸の様な扱いをされ、信者に対しての迫害圧迫はつのり、一人切れ、二人切れ参拝に来る人も無くなり、貧のどん底へと、道を辿ったのであります。

 その中「たに」は何が何でもと信仰の炎を更に燃やし、昼は日雇いに、夜はにをいがけ、お助けに廻り、長男善次郎を氷川方面に布教に出し、「うめ」十八才は機織り奉公に、「武助」十一才は西砂川へ「末松」八才は、それぞれ子守奉公に出し、教会の留守居は老婆「かめ」と末女「イト」三才でありました。

 前年古屋を移築した物を、信者の協力を得て、親神様をお祀り出来るようになり、明治三十四年二月二十三日正式に、鎮座祭を執行したのであります。

 

所長の出直しと出張所の類焼により移転

 名称の理を、お預かりしている「たに」は、毎日にをいがけ、お助けに奔走しつつも教会の内情は思うに任せず、食無き日々を送り、窮乏その極に達すと言うが如き毎日でありました。

 こうした中に、明治三十六年三月七日石井作兵衛所長は五十九才を一期として神奈川県高座郡小出村芹沢にて出直しされた。所長出直し後は、「たに」と長男善次郎とが中心となり勤めて居りましたが、明治三十八年三月二十六日午前十一時五十分、隣家の火災のため、多摩宮出張所は類焼(全焼)致しました。之により親神様、教祖のお目標様を捧持し、東京府北多摩郡砂川村西砂川三二八七番地、神田政吉方に無断にて、御遷座申し上げたのであります。

 類焼後はいかんともしがたく、谷澤家は「たに」を芯に親神様におもたれして、近隣の井上その方の馬小屋を借り受け麦藁を敷き詰め、その上にアンペラを敷き、一ヶ月仮住まいを致せしと記録されている。その後梶原権十郎氏持ち家を借り受け、親神様をお祀りさせて頂く事と成りました。そうした中「たに」の姑「かめ」七十九才は明治四十一年一月六日出直し神葬祭にて勤めさせて頂いた。

 一方多摩宮出張所の方は明治四十年三月十九日移転並びに担任教師の変更を高座支教会長清水勘吉先生兼務でお許しを頂かれたのであります。

 さあさあ尋ねる事情、尋ねる事情、尋ねる事情は前々事情一つ、又一時事情を以て一つ理尋ねる。尋ねるには皆それぞれ心と言う理、集まり手こうと言うであろう。変わる人一つ、これからどうでも何でも心精神、心一つ精神の理に許そ許そ。さあ許し置こう。

 

多摩宮の改称、担任変更と玉原宣教所設置

 明治四十二年四月七日天理教島ヶ原教会高座分教会御所見支教会多摩宮宣教所と改称、担任に神田政吉氏お許しを頂かれたのであります。

「たに」と共に長年に亘り苦労艱難の道中を通りし八、九名の信者達は、理を取られたと、憤慨して居りました所「たに」はこれらの人々をなだめ、今こそ、助け一条に奮い立たせて頂かねば成らないと、皆を勇ませ御所見支教会長青木喜三郎先生の一方ならぬ御指導の下、善次郎、うめの二人は氷川を中心として、日向和田、小河内、日原方面に熱心に布教をし、明治四十二年五月四日、東京府西多摩郡氷川村に天理教島ヶ原教会、高座分教会、御所見支教会、玉原宣教所を設立者兼担任教師谷澤善次郎を以てお許しを頂かれたのであります。

 

谷澤たにの出直しと武宮宣教所の設立

 善次郎は玉原宣教所長として就任したものの、母「たに」一人に二宮の土地に於ける布教を任しきる訳にも行かず、氷川と二宮を掛け持ちで勤めて居られしも、二ノ宮にては、あくまで「たに」を中心として、この二ノ宮の土地に、美しい助け場所を置かして頂きたいと、深く心に定め、御所見支教会長様を杖とも柱とも頼りに、日々を喜び勇んで勤めさせて頂く内に、新井米蔵氏が長女の身上により入信、「たに」の説く教理を良く心に治められ「たに」も非常に喜び、理の仕込み怠らず勤めて居りました。

 青木喜三郎御所見支教会長様は、谷澤家のみちすがらを想い返し、いかなる事情身上に遭遇せしも泰然自若として通られた、熱烈な信仰そして我が身どうなってもの心、又この土地に理を置かなければ、自分の責任が立たないと覚悟を決められ「たに」に相談、「たに」は天にも昇る様な喜びの心を以てお受けさせて頂きました

 御所見会長様は当時高座に出張中の島ヶ原役員稲森清衛門先生に相談した所、快くご承認頂き、教会設立準備会議の通知に「たに」は自ら役員諸氏宅に運ばれました。新井米蔵、黒田太之吉、滝島鉄太郎、岸峰喜八、同たか、岸峰福太郎、石川武三郎、浦野福太郎氏等に連絡をし、明治四十三年十月十日、会議開催を通知して回り、「たに」は御所見の会長様と今日までの経路を種々話し合い夕方便所から帰り間もなく気分悪くなり一言の言葉もなく、伏したままとなり御所見会長様のおさづけを頂き、十一日午前三時遂に五十四才を一期として出直しと゛なりました。

 善次郎、うめは、玉原宣教所の秋の大祭の為不在、又武助は奉公中にて不在、それぞれ飛脚をもって連絡し戻りましたが、貧のどん底にての出直しの為、直ちに葬儀を出す事も出来ず仮葬とし、改めて十一月二十五日、本葬を勤めさせて頂いたのであります。この時の葬儀は荘厳を極め参列者は四、五町にもなったと伝えられる。

 後の武八宣教所長中島マツ姉はこの葬儀を見て、人生の本分斯くあるべきと深く心に感じて居りました所、その後実母の出直しにより入信されたのであります。その後暗夜に灯火を失った如くでありましたが、御霊様の働きと申しましょうか、家族を始め四、五人の熱心者により、日に日に教会設置の気運高まり「たに」生前中の指定地であった、西多摩郡東秋留村二ノ宮二三六四番地高橋源治郎所有地約九十坪を借り受け、武助、末松二人の給料を土台として、間口五間半、奥行き二間半ほかに卸三坪の炊事場を計画し、御所見の会長様より「たに」生前中の決心を信者達に伝えられ協力を求め、多くの信者達の真実により新築が出来たのであります。

 早速手続きの準備に掛かりましたが家族に教職のある者無く、御所見の会長様に一任する事となり、名称を武宮とし、只一人の教職者である浦野福太郎氏を一時担任と定め出願する事と成りました。

 東京府西多摩郡東秋留村二宮二三六四番地 八十四坪七合五勺 建坪二十七坪二号五勺 信徒総代、岸峰喜八、黒田太之吉、滝島鉄太郎、石川武三郎、新井米蔵、岸峰福太郎ほかに地主、高橋源治郎。武宮宣教所長候補者、訓導、浦野福太郎 御所見支教会長 訓導 青木喜三郎 高座分教会長 少講義 清水勘吉 島ヶ原教会長 権大講義川勘五郎をもって出願、明治四十五年二月十五日、目出度くお許しを頂き、同年四月十日、地方庁認可となり、春吉夫婦苦労の地である二宮に武宮宣教所としてお許しを頂き、美しい助け一条の道場が設置されたのであります。

 月次祭 毎月二十日 春季大祭一月二十日 秋季大祭十月二十日

 春秋霊祭 三月九月二十三日 としてお許しを頂いたのであります。

 

積徳会の創設

 教会の設立は出来たものの、教師、授訓者の数少なく、充分な布教活動が出来ず、おもだつた方々協議の結果、大正二年一月五日、お互いの成人を目指して、「積徳会」を創設したのであります。

       趣   旨

 明治四十五年三月本教会開設以来益々進運の兆しを呈しつつあり尚時勢の進歩に伴い、斯道の教義も亦一増進行を要すると共に布教者の訓練は言うをまたず、実践躬行社会と奮闘して勇進せざるべからず、然るに本教会日尚浅きが故、基礎未だ強固ならず、専ら宣教を貫徹するに苦しむのみならず、布教師に乏しき、之を養生する策なきは頗る憂ふる所にして茲に基礎教費の必要を感ずるを以て徘徊積徳会なるものを組織し費財を募り以て斯道拡張の意志を全うせんとす。請う心ある諸氏奮って賛同あらん事を希う。

 と記され、会長一名(教会長以外より選出)幹事、評議員それぞれ若干名を置いて、その時々のご用に使用し、年五、六回講演会を開き信者の成人を促している。

 

設立以後の実状

 大正三年七月谷澤武助教校別科第十二期を卒業、布教に従事している中、島ヶ原教会長喜多治郎吉先生御巡教下され、武助を養子に貰い受けたい旨ご相談があり、又「うめ」を御所見支教会長青木喜三郎先生に嫁入りさせてはとのお言葉あり、谷澤家として春吉夫婦亡き後、一切の責任者としての善次郎は「うめ」の嫁入りの件は、喜んでお受けされましたが、武助は義父の長男なれば自分の責任上、当初は義父の系統をもって立てさせたいと、申し上げた所、喜多先生は、此処は末松に立てさせよとのお言葉でありましたが善次郎は、何ともご返事申し上げなかった由、喜多会長様は何れ天の制裁を待ちますと、仰せられたとの事、この言葉を聞き善次郎は心に釘を打たれた様な感じがしたとの事。

 その後武助はチブスにかかり快癒の見込み立たず、その時善次郎は懺悔として、喜多会長様に差し上げます旨手紙にしたため大神様に御供えし、三日三夜のお願いをさせて頂いたところ、不思議にも願い通りの御守護を頂いたのであります。この事により武助は喜多会長様の養子となり、改めて山田宣教所宮本家と養子縁組。宮本をとら姉との結婚式は大正四年三月八日行われました。

 大正四年五月十三日、武宮宣教所に大神様、教祖の御分霊を拝戴し御鎮座申し上げる事が出来ました。当時教会には「うめ」及び住み込み布教師の岡部チカとで細々と暮らして居りました。大正四年十二月「うめ」は御所見支教会長青木喜三郎先生の元へ困窮の中からとつがれたのであります。 この十二月末松は漸くにして除隊となり帰郷す。一家の状況を見た時、兄善次郎はすでにこの世を去り、姉「うめ」は御所見に嫁ぎ、兄武助は宮本家の養子となり、頼りにする者一人もなく、善次郎の子供三人を抱えて、通らせて頂かねばならない事となり、想えば新七は二七才にしてこの世を去り、後夫の春吉を迎え復興しようと思いしに之又、四十九才にて出直し、善次郎は新七の系図も立て又、義父春吉の系図も立て、一家の整理をと思いしに之又、三十九才と言う短命で出直し果たせず、末松は自分こそ、これらの整理復興をして、両親の付けてくれたお道を、引き受け勤めさせて頂く事こそ、天よりの大使命であると深く自覚して、大正五年二月十四日教校第十六期に新井米蔵氏と共に入学、同年七月十四日卒業、帰宅後は布教に専念する事に成ったのであります。

 

武宮宣教所長変更と教会移転建築

 大正五、六年頃の教勢は誠に乏しく、末松と住み込みの岡部チカ女の二人が交代で、にをいがけ、お助けに回るのみ、しかし、こうした二人の熱心な姿に次第に皆も勇んできて、新井米蔵氏は自宅を中心に布教を開始、集談所を設置、武宮にては中島マツ姉、野口イノ姉等、大いに、にをいがけ、お助けに勤めて下さった。中でも吉村シモは、九年間の血の病の所、中島マツ姉のお助けにより不思議な御守護を戴き、武宮へ住み込み生涯道一条に通られたのであります。

 大正八年の夏末松、布教より夕方帰えりし所、教会の参道がなくなり、困惑し、隣家に尋ねし所、あれは教会の参道ではなく共同水車への私道で、水車が取り壊しのため私道は地主に返還したので、教会の入口は堀付き二尺の道のみと聞かされ、末松は理の時期到来と悟り、会長とも相談し移転の心を定め、早速役員会議を招集、役員全員の参道を得、教会の移転建築を決定、谷澤正雄の所有地八十三坪を借り受け建築することとなった。

 大正九年一月二十八日地鎮祭、二月十九日上棟式となる。この教会の移転建築を契機として、信者一般の要望により、担任変更をとなり、大正九年三月二十七日、武宮初代所長、浦野福太郎氏は辞任、三月二十八日谷澤末松後任の設立者兼担任教師としてお許しを頂き、翌二十九日東秋留村二宮二三五七番地ロ号への移転お許し、更に恒例祭日も変更し春秋大祭 一月十五日 十月十五日 月次祭 毎月十五日 春秋霊祭 三月二十日 九月二十日 説教日 毎月五日とお許しを頂いた。 大正九年四月三日、移転鎮座奉告祭を執行、かくして教会も一応形が整い、この頃より天理教も土地の人々にも認められる様になった。

 神殿建築の御守護を戴き、役員信者一同益々心も勇み、中島マツ姉は吉村小町を連れて、大正九年十一月、八王子市へ布教を開始、大正十年二月八日、八王子市元横山町二十三番地に八王子集談所を設置したのであります。

 

教祖四十年祭 教会倍加のお打ち出し

 島ヶ原教会長喜多秀太郎先生、武宮へ御巡教下され、教祖四十年祭に際し世直りの旬として、教会倍加のお話あり、信者一同一手一つに、報恩一条に勤めさせて頂く心を定めさせて頂きました。倍加運動に対しては、新井米蔵氏、中島マツ市を督励し、西多摩郡平井村字三吉野下平井七三五番地に大正十三年四月二十五日、新井米蔵氏を設立兼担任教師として、武平宣教所を、又、西多摩郡青梅町日向和田五十八番地に大正十三年八月八日、田中ヨネ姉を設立兼担任教師として武西宣教所を、更に南多摩郡加住村左入二五四番地に大正十三年十二月十八日、田中嘉右衛門を設立兼担任教師として、武澄宣教所を、一年に三教会の御守護を戴き、更に翌年八王子市元横山町三二四、三二五番地に大正十四年十一月五日、中島マツ姉を設立兼担任教師として、武八宣教所を設立の御守護を戴いたのであります。

 当時武宮には、吉村シモ、野島コウ姉等住み込みとして居り毎日東奔西走、にをいがけ、お助けにと勤めて居られました。特に中島マツ姉は武澄、武八の二教会を設立されたのであります。武澄設置当時は教職が無かった為、教職持ちの田中嘉右衛門氏を所長として、自分は教師検定試験を受け、教職を取り、武八設置という快挙を成し遂げたのであります

 

武宮宣教所移転敷地の買収

 昭和四年は武宮の道の初代、谷澤春吉の三十年祭「たに」の二十年祭の年に当たり、役員、又部内教会長等、何とか教会が借地でなく教会としての敷地を与えて頂きたい、と言う気運高まり物色した所二ヶ所あり、御所見の会長様とも相談したところ、快諾を得たので昭和三年四月二日大神様に二本の籤を御供えし、お願いして頂いた所、静原小次郎氏所有地の、おさしづを頂き、早速交渉した所、五千円以下ではと思っていたが、教会の敷地となるならば四千五百円で売ろうと、言う事に成った。しかし教会にとっては大金であり「みかぐらうた」の本にて、お伺いした所「なんでもでんぢがほしいからあたへはなにほどいるとても」とのお言葉、神恩の尊さに感じ、所長の心も定まり、昭和三年五月二十日役員会議により全員の同意を得、五月二十二日契約。昭和四年七月二十二日登記完了となりました。

 

玉原宣教所 武宮宣教所の分割

 昭和四年八月十六日玉原宣教所長谷澤トメ姉より、御所見支教会長に対し、武宮より分離し玉原も御所見直属として、御指導願いたいとの、申し入れありて武宮宣教所長谷澤末松に対し、御所見会長様より玉原の思いにつきご相談あり、更に武宮へご出張下され武宮役員、部内教会長にお話下され、誰一人異存もなく承認書を作成し、各所長署名捺印し、御所見会長様にお納めし、双方とも別段変わりなく真剣に、直属として勤めさせて頂く事となりました。

 

教会所在敷地の喜納

 昭和九年八月十九日谷澤正雄、(善次郎長男)より武宮宣教所所在の敷地八十三坪(正雄名義)を、武宮宣教所に喜納の申し出があり、八月二十六日役員会議の結果、本人のみの考えか、母親も承知のことか判然としなかった為、滝島鉄太郎氏を氷川へ調査に行って貰った所「トメ」姉の言によれば(或夜夢を見て谷澤クラ様が夢枕に立ち、さあさあヤス、すっきり脱いでお湯に入り着替えるのや)との事、何の事かと思案する内、正雄より母「トメ」姉に土地を武宮に喜納したい旨話あり、母トメは、この事をお知らせ下さったのだと悟り、親子相談の上の事と判明したのであります。 多摩宮出張所として月日親神様にお鎮まり頂いた土地なれば、この様に成ってきたものと思案し昭和九年九月一日正式に、喜びの裡にお受けすることになり、十月十日所有権移転保存登記を完了させて頂きました。

 

多摩宮、玉輝、多摩城三宣教所の整理について

昭和十年六月二十七日二十八日の両日に亘り、島ヶ原役員池本千吉先生及び御所見支教会長様、多摩宮問題につき第一回目打ち合わせの為、武宮へ来所された。昭和十年七月二十九日午後四時三十分、島ヶ原詰所本館二階の役員室にて、島ヶ原中教会長様より谷澤末松に対して、多摩宮、玉輝、多摩城三宣教所を武宮宣教所の部下として整理せよ、との御命を頂いたのであります。その時の列席者は、島ヶ原中教会役員池本千吉先生、山下徳平先生、御所見支教会長様及び中島マツ姉の諸氏でありました。八月一日午後、谷澤末松、新井米蔵、中島マツの三名にて島ヶ原中教会長様の御命について、第一回打ち合わせ会議を開催、その後再三再四会議を重ね、一応お受けさせて頂く事になったが、後任者の人選むづかしく、また武宮としても今までの付き合いの上からも早急に事を進める訳にも行かず、日数を重ねるうちに、教祖五十年祭の年を迎え、昭和十一年四月十七日御所見会長様より、厳しいお言葉あり、「行きたくば人は高宮へ行きとも教会の理は御所見の理故、名称の理は高宮へは渡さぬ」と言われ、多摩宮は武宮へ、玉輝は武平へ多摩城は武八にて整理するようとのお言葉、更に昭和十一年十月おぢばにて、島ヶ原中教会長様より前記の如く、一カ所づつそれぞれ進上するにつき、整理するようにとの、お言葉を頂いたのでありますが、武宮としては多摩宮、玉輝、多摩城三所長に今一度思い直して頂きたいと、三氏に対して円満解決の道を残し、話し合いを続けたいのであります。

 昭和十二年一月黒田正一氏は、武宮所長の命を受け多摩宮の所在地である砂川へ思い直しをして頂ける様、又整理をも心に置いて布教に出たものの、かえって先方の術中に落ちそうになり引き上げた。

 かかる時島ヶ原が大教会昇格の時旬に、事情教会があったのでは、と言う厳しい御仕込みを頂き、大教会昇格の準備として、早急に整理せよとの御命、武宮、武平、武八の三所長心を合わせお引き受けさせて頂きますと、ご返事申し上げたのであります。

 時に十二年二月二十七日でありました。それより人選にかかり、武宮としては多摩宮を黒田正一氏に、武平では玉輝を宮野クラ姉に、武八では多摩城を尾島ラク姉にそれぞれ反対はありましたが、引き受けて頂き、任命移転願書の準備にかかり、昭和十二年七月二十九日多摩宮宣教所長に黒田正一氏、玉輝宣教所長に宮野クラ姉、多摩城宣教所長に尾島ラク姉がそれぞ゜れお許しをいただき、、八月一日には、多摩宮は西多摩郡多西村菅生八八九番地へ、玉輝は北区田端町新町二丁目三一八番地へ、多摩城は立川市高松町一丁目三七四三番地へ、それぞれ移転のお許しを頂きました。更に今後の各教会の所属につき御所見会長様より左の如き承認書を下付され、今後の布教丹精指導に当たる事となりました。      承  認  書 

            天理教多摩宮宣教所

 右宣教所の儀 御所支教会直属教会たりし処所長神田重蔵順序の理に添わず、自由行動をなしつつ有之候為該所長は辞職なし、将来の整理を貴教会部内に委託せしに付いては当宣教所は永遠貴教会の部属たる事を承認致し候也

    昭和十二年八月十八日

                      天理教御所見支教会長

                青 木 喜 三 郎  印

   天理教武宮宣教所長

      谷 澤 末 松 殿

 玉輝の場合は御所見支教会多摩宮宣教所玉輝宣教所たりし処所長中島久四郎多摩城の場合は御所見支教会多摩宮宣教所多摩城宣教所たりし処所長神田要蔵と文面に於いて所属の点につき変わりあれど内容は変わらず、かくして三宣教所の事情はお陰をもって整理の御守護頂いたのであります。 

 

大東亜戦争前後

 

 陸軍立川飛行場の拡張整備のため、立ち退き命令の、栗原保太郎氏所有の家(武八の信者田中イネ、女中奉公中の家)を買収し、武宮宣教所移転予定地内に客間用として昭和十三年十月移築した。昭和十五年四月四日宗教団体法により武宮宣教所所属として西多摩郡多西村草花九六三番地に宗教結社下草花布教所を滝島栄吉氏を所長として開設。後に下草花を武森と改称。昭和十六年五月一日武宮会長谷澤末松は東京教区西多摩事務主任を拝命す。当時の道の者として、、軍部に対する勤労奉仕こそ、道の生命としての、ひのきしんであった。終戦まで陸軍飛行実験部及び陸軍航空資材本廠等への、ひのきしんに出動。昭和十六年十月九日表彰を受ける。

昭和十八年五月三十日武八分教会所属として山梨県甲府市愛宕町一番地に高松友久を所長として武山布教所を開設。昭和二十年八月の東京大空襲の為多摩宮分教会の家主、戦災により引き上げのため立ち退きを要求され、やむなく武宮分教会移転予定地内の客間用の建物へ致し方なく一時無断移転させて頂く。

 昭和二十年八月十五日終戦となりお道は直ちに真柱様より復元をお打ち出し下さったのであります。

 

  武宮二代会長出直しにより会長変更

昭和二十一年五月二十七日零時三十分 武宮二代会長谷澤末松五十四歳と言うを一期として出直す、五月二十九日御所見支教会長青木喜三郎先生斎主の下告別式を執行させて頂きました。二代会長出直しにより教規によれば直ちに後任教会長を選定し、事情願いをすべきでありますが、後任予定者の安道は戦争中徴用にて未だ教職なく、役員、部内教会長、信者一同の、どうでもと言う要望により、二代会長の五十日祭を待たず、二十一年七月、天理教校修養科第六十三期に入学、九月二十七日修了、大教会長様の添書を以て、十月教師検定乙種講習会を受講、二十二年二月六日権訓導を拝命、直ちに事情願書を作成願い出る。昭和二十二年四月二十五日武宮分教会三代会長に谷澤安道二十七歳、お許しを頂いたのでありました。五月十五日就任奉告祭を勤めさせて頂く。

 昭和二十二年六月二十九日二代会長に対し 権少教正を贈られる。

 昭和二十二年十一月二十二日武宮二代会長の手足となって勤め、三代会長の就任以来、日尚浅く今後良き相談相手となって貰いたいと思っていた、武平初代会長新井米蔵氏は六十五歳を一期として出直し、悲しみの裡に十一月二十四日武宮会長斎主の下葬儀を勤めさせて頂いた。

 昭和二十三年三月二十八日武平分教会二代会長として、新井ノブ『米蔵氏嫁』任命のお許しを頂く。

 昭和二十三年八月、共産党の組織する農村文化工作隊なるもの、殆ど毎週の如く二宮の地にも現れて、紙芝居を以て、子供達に共産党の宣撫工作を始めたのに対し、この地を共産党に荒らされてなるものかと言う会長の意志のもと、当時子供会を組織し、教祖のお話、親神様のお話又、教区よりお道の紙芝居を拝借して、之を上演対抗す。ある時教会にての開催日と、共産党の開催日が同日となり、共産党はマイクロホンをもって呼びかけるも子供達は集まらず、皆教会の子供会に参加し、為に農村文化工作隊はこの日を最後として以来来なくなった。武宮にて天理教祖一代記の絵話を製作したり、その後武宮の草分け時代等と題して、人形芝居を演じたのもこの頃からであった。

 

武宮分教会移転神殿建築行われる

 武宮の神殿建築に先立ち、戦争の為、立ち退き又は、戦災等にて無断移転のままであった

、多摩宮分、玉輝分、多摩城分を、正式にお許しを頂くことになり三教会ともそれぞれ順次出願させて頂く事となる。

 昭和二十四年五月二十六日多摩城分教会は立川市曙町二丁目二四0番地へ移転のお許し。同年十一月二十六日多摩宮分教会は西多摩郡東秋留村平沢五八五番地へ移転お許し。同年同日玉輝分教会は西多摩郡日の出村平井九二七番地へ移転お許しを頂き、鎮座祭、奉告祭を勤めさせて頂く事が出来ました。部内教会の整理も一応出来て、昭和二十四年十二月御所見の会長様に、御所見の神殿建築について、御相談した所、御所見としては、今その心は無いから、武宮の土地を求め引き続き御所見の土地を求めた時のように、まづ武宮より神殿建築をしなさい、そして武宮が済んでから御所見もさせて頂くからとのお言葉でした。その後も種々話し合いを重ね、考えさせて頂いた結果、昭和二十五年一月十六日大祭翌日、改めて役員、部内教会長諸氏に集まって頂き、武宮の神殿建築について第一回会議を開催させて頂きました。

 武宮会長より先ず先代会長の苦労により購入出来た移転予定地、存命中『向こうの屋敷向こうの屋敷』と常に心に掛けていた土地に、是非とも前会長五年祭の御供えとして移転をさせて頂きたい、旨話させて頂く、更に武八の中島会長より神殿建築のご用により成人させて頂こうと説き、役員、部内教会長全員、賛同して下され、ふしんの土台としてその場にて各人理を立てさせて頂いた。ふしんの準備に掛かった所、敷地内に里道がある事が判明、早速払い下げを村当局へ申請『六坪三合二勺』申請す。二月二十二日村議会にて、坪当たり百円と言う事で払い下げが可決しました。移転予定地全て農地の為、使用目的変更を申請、四月三日、六六五坪の内、二六四坪が許可された。

 昭和二十五年九月、島ヶ原大教会長様と武宮の神殿建築につき話し合った結果、お許しを頂いたので、十月五日地鎮祭を勤めさせて頂く、夜来の雨であったが準備が整い式に掛かる時には雨も止み誠に喜びの裡に地鎮祭を勤めさせて頂いた。今回の建築には武八会長次男、天野広二氏、大工職の所から手間一切ひのきしんと言う事で、誠に有り難い次第であります。二十六年一月十五日、大祭の日に神殿上棟式を勤めさせて頂く事となり、御所見会長様の臨席の下、奏楽の内に祭主会長、こ者滝島栄吉、平野作一両役員にて勤めさせて頂いた。雅楽の入った上棟式は殆ど無き為、近隣の噂しきり。

 二月十日、田中嘉右衛門氏を中心に勤めて頂いた井戸掘りも完成す。水口は北で国常立命の御座所方にて誠に有り難し、現在まで一度も枯れた事なし。

 昭和二十六年六月二十八日、武宮分教会移転建物移動並びに増改築願により、お許しを頂いたのであります。 移転地は西多摩郡東秋留村二宮ニ三一四番地二、地坪七一九坪七勺、建坪八十一坪五合。附属建物の上棟式は七月五日勤めさせて頂いた。二代会長の五年祭そのものは取り止め、神殿建築に掛からせて頂いた事は誠に有り難し。

 付属建物に付いては、上級御所見支教会の神殿建築が着工されたので、壁は全て中塗りのままとした。

 昭和二十六年七月一日客間へ御遷座させて頂き、今までの教会を移築して、附属建物として使用する為取り壊し、約一ヶ月で工事を終了す。

 十一月十四日、御所見、青木会長様の祭主の下鎮座祭を執行、翌十五日には来賓、多数の参列を頂き無事奉告祭を勤めさせて頂く事が出来た。

 

武平分教会事情教会となった経緯

 昭和二十五年十月一日、武平二代会長、新井ノブ姉、発作的に精神異常となり、五名の役員を同道し、親神様、教祖の御分霊を武宮に捧持し『今日限り教会を閉鎖する』と申して、神様をお受け取り願いたいと、只今武宮の会長は留守故、帰るまで待って頂きたいと留守居の者より返事した所、会長留守を承知の上で来たのであって、会えば叱られるに決まっているのだからと、言うて立ち去ったと。会長帰会後話を聞き、部内の修理丹精の届かない事をお詫び申し上げ、早速武平を訪問したが、施錠してあって会うこと出来ず、その後も何回と無く訪問するも会えず、会長に同調しなかった役員の鈴木健次郎氏とも、話し合うも復興する意志もなく、万やむなく事情教会となる。

 

宗教法人法の発令と三代会長支部長時代

 昭和二六年十一月五日教会敷地の内、前回許可残余の土地四百一坪の、農地使用目的の変更申請提出、二十七年二月四日農地使用目的変更の件許可。四月十一日村道払い下げの土地六坪三合二勺の所有権保存登記完了。五月一日宗教法人法により、教会規則の変更天理教本部より承認、七月八日西多摩郡東秋留村二宮二千三百十四゛番地二へ五筆を合筆し合計二反五畝一歩〇九勺となる。(内)二三〇五番三地三三坪を含む)登記完了。同時に木造瓦トタン交ぜ葺き平屋建教会堂一棟八三坪八勺も登記完了。

 昭和二十八年二月十九日武宮三代会長安道は天理教東京教区西多摩支部長を拝命。

 振り返ってみれば昭和二十六年、前支部長(伊藤西多摩分会長)詰所主任を兼務する事になり、支部長代行を勤めつつ、法人法発令により支部事務担当者を御命頂き勤める事となり、一時は支部長、会計、事務担当者、道友社社友等一手に勤めさせて頂いた年月もあった。

 昭和二十八年三月二十日武宮分教会は宗教法人教会として登記完了。部内教会も武平を除き法人教会として登記完了。三十年三月十六日多摩城分教会二代会長尾島ラク姉七十歳を一期として出直し、昭和三十年五月八日武宮の教会所在地が、町村合併により秋多町と変更され変更届提出。

 昭和三十年五月三十日真柱若様(後の三代真柱)善衛様、青年会のポ-リ-にて武宮にお入り込み小休止なされた。予定コ-スが道路工事のため通行できず、突然のお入り込みとなった。幸い新茶のできた時だったので大変お喜び頂き、有難き次第であった。

 昭和三十一年一月二十六日より教祖七十年祭が執り行われ、東京教区として団体列車十三両編成千三百名を、二十二列車で参拝させて頂く事となり、武宮三代会長は第二十列車の団体責任者として勤めさせて頂いた、二月十二日出発十六日帰りであった。武宮部内二回に分けて合計百三十名参拝させて頂いた。

 

三代会長詰所勤務を命ぜられる

 大教会役員早坂栄一先生、昭和三十一年二月二十八日、教祖七十年祭のほとぼり覚めやらぬ時、大教会長様の代理として武宮に来会、武宮会長に対して詰所のご用を一年ばかり勤めて欲しいと、お話あり、何れにしても上級会長様のご意向をお伺いして、ご返事致しますと申し上げた所、御所見の会長さんにはすでに大教会長様よりお話があって、上級会長様は「部内先々までもお心をお掛け頂き誠に申し訳ありませんどぅぞ宜しいように」とお答え下さって居るとの事、やむなく家族共々相談の上お受けさせて頂く事となった。

早速上級御所見へ参拝し、その旨青木喜三郎会長に申し上げた所、事実そのように返事をしたが耳が遠く充分に解りきれなかったが、只只部内の武宮と言う言葉が聞こえたのでそう答えたのだと、非常に驚かれ、然しながら親のご用故しっかり勤めて欲しいとのお言葉があり勤めさせて頂く事になったのであります。

  東京駅頭に早坂先生親子で見送りに来て下され、どんなお心でと尋ねられ「現在前任者身上とのこと、自分も何時次の方と変わるにしても、身上壮健にて譲らせて頂きたい、後は親の言葉に添い勤めさせて頂くのみ

」と話し合って、一路お地場へ向かわせて頂いた。

 昭和三十一年三月二十二日武宮会長は修養科生補導掛を拝命、上野辰治郎詰所主任の下にて、前任者中村長太郎先生と交代して勤めさせて頂く事となった。為に武宮では男手無しという上から、当時武八所属の太田一男氏、立川にて布教中の所、武宮分教会住み込み青年として三月十三日より勤めて頂く事となった。

 昭和三十一年七月十五日武宮にて大教会長様ご夫妻のお入り込みを頂き、教祖七十年祭を盛大に勤めさせて頂いた。

 昭和三十四年十一月四日住み込みの吉村シモ刀自八十五歳をもっ出゙直し、思えば武八初代会長中島マツ姉によりお助け頂いてより教会住み込みとなり、実家よりも、嫁ぎ先よりも一番長く四十二年間の住み込みであり、教会の生き字引き的存在だったので、永年の功績を讃え、六日教会葬をもって勤めさせて頂いた。

 昭和三十五年四月一日修養科一期講師を拝命、詰所用務と併せての勤めなれば寸暇もなく、お陰様にて身上壮健にて勤めさせて頂いた。大教会神殿建築も順調に進行中尻に、腫れ物が出来、ある夜何処からともなく声あり、「お前の出来物は普通の出来物ではなく、それは瘍なり然も三つの瘍なり」と、「三つのご用とはと尋ねたところ」「人と金と物の用なり」と声ありて目を覚ます。 この夢を見て心を定め、大教会神殿建築の上に人の面では青年会員を中心としてひのきしんに、物の面では婦人会の方々が中心となって何からでも勤めて頂きたい、又金の面については申すまでもなく皆々にお願いし勤めて頂く事とする。武宮の前身である多摩宮出張所の在りし土地、二宮二三五七番地、武宮として保存するつもりであったが、先々代が容易ならん中家屋敷を売り払い尽くして下さった事を思うとき、今の結構さを思い比べ、昭和三十六年七月十九日宅地八十一坪を売却し大教会神殿建築に伏せ込ませて頂いたのであります。

 昭和四十一年三月大教会神殿用根榊一対を御供えさせて頂く事となり、大教会より白幡保道先生、小松田誠三青年とでトラックで引き取りに来て頂き御供えさせて頂く事が出来ました。

 

台風二十六号により大節を頂く

 昭和四十一年九月二十四日台風二十六号により客間屋根全部、教職舎屋根半分を飛ばされ、更に教職舎の合掌までも崩れるという節をお見せ頂いたのであります。武宮の信者もそれ相当の被害を受けひのきしんの出動もして頂けない状態、その時大教会より桑原耕治役員、青年二名にて、見舞いに来て下された、心から喜こばさせて頂き、終生忘れ得ぬ出来事であった。又教会本部災害対策委員会よりも見舞いを頂戴し、町からも融資をして頂き十月二十一日修復を完了させて頂いた。

 

谷澤家墓地を西多摩霊園に改葬し、武宮分教会奥津城とする

 谷澤家墓地は玉泉寺(天台宗)内にあって、種々問題を提起しており、何回と無く町当局へ教会墓地としての土地を物色して欲しい事を請願して来たが、都の条令により思うような土地もなく、東京都まで内意を伺った所、貴会は境内が広いから近隣の方々が承認さえすれば、境内地内に納骨堂を建てたらどうかと言う事になったのでありますが、近隣の方々も承認の印を押すという者もなく苦慮している時、天理教東京教区が西多摩霊園内に天理教墓地としての地域を購入したので、早速役員会議を臨時招集し、この件審議した所全員の賛同を得たので、西多摩霊園内天理教墓地内に教会墓地として三坪を購入させて頂く事が出来ました。

 早速玉泉寺内の墓地を改葬する事になり昭和四十二年三月十三日、五日市保健所所員及び玉泉寺住職又町役場吏員立ち会いの下、一切を掘り起こし、二代会長の遺骨を始め先祖代々の遺骨を骨壺に納め、改めて武宮分教会奥津城に改葬する事に、この改葬を機会に今日までの役員、部内教会長等をも分骨改葬する事として、同年三月十九日(大教会長の都合により)碑文には二十日となっている)中森芳次島ヶ原大教会長様祭主の下改葬祭を勤めさせて頂く事が出来たのであります。以後寺とは一切手を切り、名実共に子々孫々に至るまで、天理教式で勤めさせて頂くことが出来るようになった。

 当日改葬させて頂いた者先祖代々の他十五名 施工は宮川石材店鉄板鉄筋コンクリ-ト作りカロ-ト 百二十体収容できる様製作

 

 武澄分教会事情のこと

 昭和四十五年頃より武澄分の後継予定者田中喜久雄氏、よのもと会活動の上から、真剣に上級教会普請に勤めている藤木某なる〔甲府部属東山梨分所属〕者の容易でない姿を見るに忍びず、義侠心に強い田中氏はこれを援助、事情は次第に悪化し、親神様、教祖のお目標様も危険を感ずるようになり、やむなく無断にて昭和四十六年六月三日武住澄の月次祭後、上級武八分教会に御遷座申し上げ、遂に事情教会となったのであります。昭和四十六年十二月十日武澄分教会初代会長田中嘉右衛門出直された七十五歳

 

武宮分教会創立六十周年記念祭執行

 昭和四十七年は創立六十周年になるので、四十六年十二月十五日月次祭後に役員会議を開催し、飲み食いの年祭でなく、実の伴った、即ち現在普請中の第二十七母屋の建築に、しっかりと伏せ込ませて頂こうと言う事を謀り、賛同を得これを決定、昭和四十七年元旦に、及び一月十五日の大祭に参拝者に対し、六十周年記念祭二月十五日に勤めさせて頂く事を発表し、武宮が今日あるは先輩方々の容易ならん丹精があったればこそである事を思う時、創立記念祭の後、引き続き慰霊祭を勤めさせて頂く事となった。

 昭和四十七年二月十五日創立六十周年記念祭当日は祭典に引き続き、祖霊殿にて慰霊祭を勤めさせて頂いた、会長の玉串奉献、祭文奏上に続き御所見分教会長様、遺族代表に黒田正一氏、参拝者代表に中島マツ姉がそれぞれ玉串奉献して終了。記念講演として君沢分教会長杉崎和彦先生にお願いしお勤め頂いた。当日の参拝者百六十名

 

地域社会へのひのきしんに踏み出す

 昭和四十八年七月十五日よりよのもと会活動として、武宮の信者を中心に二宮児童公園の草取り清掃ひのきしんを、毎日曜日早朝に勤めさせて頂く事となった。公園とは名ばかりで草の生い茂る空地という感じの所であったが、立派に公園として使用される様になり全く有難い事であり、近くの一般の方々も共に奉仕して下さる様になり(こうした事は社会が明るくなります)と喜んでくだされ、誠に有り難い次第。その後菅生にある老人ホ-ム松楓園へ毎月一日にひのきしんさせて頂き現在も続けられている。現在までに二回の表彰を受けました。

 

武澄分教会の事情整理

 昭和四十六年以来事情教会となった武澄分教会を、武八部属武山布教所長の太田一男氏に引き受けて頂く様話を進めるも、現在地では狭くどうにもならないと受けて頂けず、その後子供達への身上の理を見せて頂き、土地物色となり所長夫人にしっかり土台となる土地を探すようにと話した所、不思議にも早急に御守護頂き、昭和四十八年十月二十六日武澄分教会二代会長に太田一男任命お許し、同時に山梨県中巨摩郡竜王町大字富竹新田二三七一-四に移転のお許し、更に武澄を武山と改称のお許しを頂き、大教会長様祭主の下、十月三十一日御鎮座祭、翌十一月一日奉告祭を勤めさせて頂いた。

 

武宮分教会神殿及び附属建物増改築願

 大教会長様より武宮へ真柱様お入り込みご予定との御内意を頂いたが教祖八十年祭時の無断増築もあり、真柱様お入り込みに対して申し訳ないと、役員会議をもって話し合い一応現状のまま真柱様をお迎えさせて頂く事となり無断建築分を事情願いさせて頂きすっきりした状態でお迎えさせて頂こうと、昭和五十年九月二十六日理由書付きにてお許し頂く、十二月二十五日には教祖御神座を拝戴し、十二月二十九日武宮分教会長の手で教祖御目標様を御神座にお納めさせて頂き御鎮座させて頂いた。

 

武八分教会初代会長の出直しと二代会長就任

 武澄分教会、武八分教会と自ら二教会を設立、道の上に多大なる功績を残した初代会長中島マツ姉は、昭和五十年十一月二十六日家族、教会役員、信者の見守らいの中九十五歳という長寿を全うし出直された。葬儀は二十八日御所見分教会青木博会長斎主の下、教会関係者、支部関係者、一般参列者多数の見送りの中厳かに勤めさせて頂いた。

 二代会長として初代の五女「九」姉をもって願出、昭和五十一年二月二十六日任命お許しを頂く、五月一日就任奉告祭を、大教会長御臨席の下賑やかに又、厳かに勤めさせて頂いた。

 

教祖九十年祭後の動き

 おぢばよりのお打ち出しである教会長月参りに添わせて頂こうと、キャラバンコ-チの新車を購入し、昭和五十一年六月より実施させて頂く、以後毎月滞る事なく実施させて頂いている。

 昭和五十一年十月大教会長様よりお話あり、武宮の客間では真柱様をお迎えするにしても、誠に使い勝手が悪いから、この際内部改造をしては、とのお言葉を頂きその場へ白幡役員を呼び、内部改造の図面を書いてやって欲しいと、頼まれ早急に先生は書かれ、これでどうだろうと、その図面に基づき役員会議を経て、役員の岸峯一治氏の娘婿、奈良大工に依頼する。昭和五十二年一月十八日屋根を残して取り壊しを行う。

 親の声は天の声と言うお言葉があるが柱の根方は殆ど白蟻の被害を受けておりどうにもならない状態であった。三月十四日内部改造は竣工し、大教会長様のお入り込みを頂き、これならば狭くても真柱様にお使い頂く事が出来ると。およろこび頂いた。翌十五日には月次祭を参拝頂き、時旬の理について御仕込みを頂いた。

 

ブラス教会設立奉告祭に武宮会長(安道)随行長としてブラジルへ

 島ヶ原大教会海外初の教会がブラジルに設立される事となった。ブラス教会(山口ハナ会長)の設立奉告祭に大教会長夫妻(中森芳次)の随行長として、白幡保道役員と共に昭和五十四年十一月二十八日、成田空港を離陸させて頂き。(安道布教部長の立場に在りし上からの御命)アメリカ、サンフランシスコに着陸、入国手続き、誰も一緒には出来ない一人づつだ、空港の官吏より日本語で(かんこ)と声をかけられ、此方はOKと答えて無事税関通過、サンフランシスコでは桑都分の信者コ-ルさんを訪問、フランシスホテルに宿泊、アメリカウエスト教会(西陣)を参拝させて頂き、ブラジル国へ向かう、途中ペルー国リマを経由してブラジル国サンパウロのピラコボス空港に着陸、迎えを受けて天理会館に宿泊サンパウロよりバウルのブラジル伝道庁へ参拝大竹忠治郎先生の歓待を受け、又お話を聞かせて頂く、大久野分教会の並木千一さんとも面会し、サンパウロより十二月三日サルパドールへ向かう、十二月四日サルパドール空港着、ブラス布教所よりの信者さん方の迎えを受け、直ちにブラス布教所へ着、(ブラスへは大教会長と別れ二人で先行する)翌十二月五日より、新神殿にて奉告祭の準備に掛かる、よろづよ八首の額を経師させて頂く「のり」は、ブラジル伝道庁よりのひのきしん青年さんに教えて頂き、木工ボンドを薄めて張らせて頂いた。 大教会長様は着されて直ちに墨痕鮮やかにブラス教会と書かれ立派に看板も出来上がった。

 十二月七日奉告祭当日大竹ブラジル伝道庁長、随行に諸井先生揃ってご到着、前夜大教会長祭主の下鎮座祭が勤められ、今日は晴天に恵まれ、賑やかに、厳かに、盛大に設立奉告祭が勤められた。終わって直会は野外のテント張りの会場にて行われた、歌も踊りも故国を懐かしみ全部日本の歌踊りであった。翌八日は改めて全員集合にて反省そして練り合い、決意を大教会長に申し上げ終了させて頂いた。

 十二月九日別れを惜しみつつ出発させて頂く事となった。十二月十一日マイアミ空港よりロスアンゼルスへ向かう、十二日アメリカ伝道庁参拝ロスのニューオータニに宿泊、十三日ロスアンゼルス空港を飛び立ち、十二月十四日無事成田空港に到着、リムジンバスにて箱崎シテーセンターへ、ここで出迎えの滝島弘、中島保男、佐々木喜代子、山下道代、谷澤真一それぞれと握手、一路武宮へ向けて出発、お陰様にて道中身上壮健にて何の支障もなく、ご用を済まさせて頂き誠に有り難き次第。改めて十二月二十一日全員揃って親神様、教祖に御礼のご報告をさせていただいた。

 

三代真柱様武宮分教会へお入り込み

 昭和五十五年四月二十九日会長「安道」朝方真柱様武宮へお入り込みの夢を見る。朝づとめ後、皆に話し、お茶を頂いている処へ、大教会長様より電話あり、6月13日真柱様武宮分教会へお入り込み下さると、真柱室より連絡あったがお受けさせて頂くかどうかとのこと、お断りする筋合いは毛頭なく、もったいない事です、できないながらも精一杯真心込めて、お迎えさせて頂きたいとご返事させていただく、大教会長様は、それではその様に真柱室へご返事させて頂くからとのこと。

正夢とはこの事か、先年ブラジルへの随行の時も朝方の夢がそのままだった、今回も又、真柱様がお入り込みの正夢とは、まったく有難いことだ、参拝の方々に、その旨伝える、皆喜びと驚きの一瞬、どうして良いのか判断も付かない始末、早速御所見分教会へ報告と同時にお願いさせていただく。

翌、4月30日青木博御所見分教会長様を始め、役員及び部内教会長にお集まりいただき、第1回打ち合わせ会議を開催させて頂く。席上武宮会長より教祖90年祭後、武宮も真柱様お入り込みのリストに上がっているとのお話が大教会長様より有り、客間の内部改造をさせて頂き、3月15日大教会長様非公式にもお入り込み頂き、大変お喜び頂いた、又墓参し、先代先々代又、ご先祖様にも真柱様お入り込みの旨報告させて頂いた事を話す。

会議事項としては、1.畳2.庭木の手入れ3.門柱及び参道の改修4.教堂内部の白壁の塗装5.仮設炊事場6.仮設トイレ7.神具の購入(三宝、八足等)8.費用の件9.料理に付いては、武山分高松正雄氏に依頼すること等話し合い、直ちに出来ることから準備に掛からせて頂こうという事になった。

教旗の手旗を東出 格氏に100本依頼しました。

5月13日には、大教会長様下見のためお入り込み下され、真柱様お入り込みの意義に付いてお話有り、島ヶ原として11番目との事、その他お迎えの指図をして下さった、西多摩支部としては真柱就任後1番目、つとめ不充分にも関わらずお入り込み頂けるとは、一賭からしっかりつとめるようとの親心からと悟り、部内一手一つ真心込めて喜び勇んでお迎えさせていただこうと誓い合う。

5月15日の月次祭には信者全体にお話しさせていただく、同時にお迎え役割60名を発表させて頂きお願いする。5月25日には真柱室にて打ち合わせが行われ、大教会長様武宮会長夫妻、武山会長の4名出向する、玉輝の件に付いては、大教会長様より真柱室長に申し上げて下さったとの事、6月6日お入り込み1週間前に東京母屋より武宮までの所要時間測定、丁度1時間、9日には河野専一氏より五間×七間の大テントを借用し、中庭芝生の上へ設営。

6月13日お入り込み当日、午前6時真柱様お迎えに出発、武宮会長、太田武山会長、滝島弘役員、運転手には遠藤孝徳、山下孝次の5名、天候は曇天心配する、8時10分松田元次先生、大教会長共々お宅へお迎えに参上、8時35分真柱様お玄関へお出まし、奥様お見送りにお出まし、真柱様のお車ベンツの助手席へ武宮会長乗車させて頂きご案内申し上げる。中央道をひた走り八王子へ向けて、車内では真柱様新聞をご覧になっており、松田先生も黙っておられた。インターを出、16号に差し掛かった処で、運転の町田さんライトを点滅、それを受けて佐々木弘一直ちに連絡を取ってくれた、高月に入って初めて言葉を交わす、間もなく橋を渡りますが渡ったら教会の有る秋川市ですと、もう少しやなーと、車は二宮に入る北通りを走る、沿道には教信者、手に手にうち振る教旗の手旗、何とも言いようの無い気持ち、9時37分遂に、夢の憧れとも言うべき、真柱様武宮分教会へお入り込みが現実となった、ああ、なんと有難い事か、信仰する者としてこの感激他に言葉無し。

客間にて武宮分教会の概要に目を通され、御下問下される、又昭和30年5月31日青年会長としてポーリーにて武宮へお立ち寄りご休憩の為、お入り込みの時の写真をご覧になる、10時30分予定通りお仕込み下さる、教信者250名、12時終了、12時15分より役員部内教会長35名に対し、特別に55分までお仕込み下さる、教堂にて記念撮影、客間に戻って「心のふしん」と御揮毫下さる、1時30分直会の席にお着き下された。

ご予定より1時間遅れの午後3時35分ご出発お帰り下された、お送り後直ちに御礼のおつとめ、客間にて大教会長様ご夫妻、御所見会長様ご夫妻に御礼申し上げ、皆々感激のつちにお迎えお送りさせて頂くことが出来ました、有難し。

 

武宮分教会創立七十周年記念祭執行

 昭和五十七年五月十五日、武宮分教会創立七十周年記念祭を大教会長様名代として、宮本 雄役員、随行に青木 博役員を迎え、盛大に勤めさせて頂いた。創立以来紆余曲折容易ならん道すがらを思うとき、先祖代々の御霊様又、歴代会長を芯として勤めて下さった先輩諸先生方の御霊様をお慰めさせて頂こうと、御所見分教会長様に祭主をおつとめ頂き、午後より慰霊祭を勤めさせて頂いた。因みに記念手拭いに「続いてこそ道」と揮毫す。更に今日存命で永年会長としてお勤め下さった方々、会長として四十五年黒田正一氏、会長夫人として二十六年、会長として十九年の谷澤コウ姉、会長として二十四年の尾島ラク姉の、三名に記念品として、おぢばがえり用のカバンを授与して慰労す。当日のお祝い二七二ろ名、弁当二六一個、記念祭を勤めさせて頂いた御礼におぢばがえりを計画六月三日から六日のバス団体をもって三十五名帰らせて頂いた。尚御所見分教会へ記念祭執行御礼として六月十一日太鼓「二尺二寸」とすり鐘をさせて頂いた。

 

武政布教所開設

 昭和五十八年七月十二日、西多摩郡五日市町五日市一四六番地に高橋久子を所長として、所長自身の身上の御守護を願いつつ開設。よふぼく七名内教人二名、信者八名、土地四十五坪、建坪四十坪、月次祭八日と定める。

 

武平分教会無断移転地より正式に移転

 昭和三十八年九月二十六日お許しを頂き谷澤コウ会長として西多摩郡日の出村大久野二五六六番地に於いて勤めていたが家主の都合により立ち退きを迫られ、やむなく御所見会長祭主の下近くの借家へ無断移転(昭和五十一年四月二十八日)勤めさせて頂いていた処、おぢば方向を向いた二階建ての家が見つかり交渉した処、神様をお祀りするならばとの事にて借用する事になった。昭和五十八年九月二十六日お許しを頂き西多摩郡日の出町大久野一一五七-七番地へ移転、大教会長様祭主の下、十月三日鎮座祭、翌四日移転奉告祭を勤めさせて頂くことが出来た。。随行に宮本 雄、青木 博、谷澤安道の三役員。

 

武平分教会三代会長出直し、四代会長就任

 武平分教会三代会長谷澤コウ姉は、昭和五十九年八月二十八日八十四歳を一期として出直し、二十九日青木 博御所見分教会長斎主の下みたまうつし、翌三十日告別式を勤めさせて頂き、十月十三日五十日祭

又埋骨と御所見青木会長様の祭主の下お勤めいただいた。

 教祖百年祭を目前にしての時旬故、いつまでも無担任は許されないと、武宮分教会住み込みの佐々木 弘、氏を後任として願い出、昭和五十九年十一月二十六日武平四代会長としてお許し頂き、十二月四日大教会長様御臨席の下就任奉告祭を勤めさせて頂いた。随行青木 博、谷澤安道の二役員。

 

玉輝分教会事情整理について

 玉輝分教会長宮野 環氏辞任を申し出、お目標様を一時武宮に御遷座申し上げていたが、武宮としては種々手を尽くしたので有りますが、万策尽き、上級会長様にお願いした処、御浜港分教会所属の葉山布教所へとなり、矢島杉子姉快く受けて下され、武宮より御浜港部属と、所属を変更し、昭和五十九年十一月二日、葉山一分教会と名称も変更し、矢島杉子姉を会長として大教会長様祭主の下、随行宮本 雄、青木 博、谷澤安道三役員にて、鎮座祭、翌三日移転、就任、改称奉告祭を勤めさせて頂いた。

 

武宮三代会長辞任四代会長就任

 教祖百年祭の前年、昭和六十年一月十五日武宮分教会の春季大祭を、盛大に勤めさせて頂いた夜。十六日午前二時半会長夫人ロク、食道静脈瘤破裂にて倒れる。翌十七日は、御所見分教会創立九十周年記念祭の為、武宮より赤飯を引き受けていたので、ろくは大いに心配していたけれど、皆さん方のひのきしんで無事二百個の弁当を処理、間に合わせて頂いた。大教会長様に電話にて「ロク」の身上につき連絡した処、只一言、「会長変更する様に」とのご指示、御所見の九十周年を無事勤めさせて頂いて、翌十八日役員会議を開催、種々練り合う、山下十郎役員発言有り、大教会長様よりのお言葉なのだから、どうの、こうのでなく、素直に受けさせて頂くべきだろうとの意見によって、皆も肯き、会長長男真一に会長変更を決定。その手続きに掛かる。二月十三日「ロク」手術の日信者の皆さん方、お願い勤めに来会、その席上会長より、今日は家内の手術と言うことで、皆さん方お願い勤めにお集まり下さったものと思いますが、今日はお願い勤めでなく、今日まで七十二年間結構に身上をお貸しいただいた御礼のおつとめをお願いしたいと申したところ、そんな事はと、反対もあったが皆承知をしてくれて、鳴り物も全部入れて、総立ちにて御礼のおつとめ、よろづよ八首のておどりをさせて頂く事が出来ました。お陰様で親神様の特別なる御守護を頂き、八十三日ぶりに退院させて頂きました。

 三代会長は三月二十二日天理教島ヶ原大教会布教実修所初代所長を拝命。四月十六日開所を目指して、その準備に掛かる、四月十六日大教会月次祭当日の午後、池本義雄氏御供えの建物に「天理教島ヶ原大教会布教実修所」の真新しい看板が掲げられ開所させて頂いた。

 所長谷澤安道、副所長山岡久義、掛池本 紘、山下雄次、生成芳雄が任命された。

 三代会長は六十年六月十五日の月次祭を最後の祭典として辞任、二十七歳で会長に就任以来三十八年二ヶ月の在職であった。

 昭和六十年六月二十六日、任命及び神殿附属建物増改築願いお許し四代会長に谷澤真一、又同時に教祖お社取り替え、茶の間、事務所の増築願いのお許しを頂いた。 お許し後、三代会長わ教祖殿お居間にて、

真柱様より「最高の譲り方をしましたね、長い間ご苦労様でした」と労いのお言葉を頂き又、後日色紙「たんのうは真の誠」を頂戴した。

 七月十三日大教会長祭主の下、教祖お社取り替え鎮座祭執行

献餞長 谷澤真一 指図方 宮本 雄 こ者 青木 博 谷澤安道

 七月十四日 大教会長様御臨席の下 随行に宮本雄 青木博役員 青木わか御所見分教会長夫人 来賓 参拝者多数の中四代会長就任奉告祭を勤めさせて頂いた

武藤布教所開設

 教祖百年祭を目前にして、武八部属として武藤布教所を開設、東京都日野市日野七七七四-一三八に遠藤孝徳を所長として昭和六十年十一月八日開設させて頂いた。

 

多摩宮分教会六代会長お運び

 昭和六十三年七月七日五代会長、黒田正一 八十四才を一期として出直され、嗣子 委久男氏、未だ修養科にも入っていないのでやむなく、武宮会長夫人 裕子をもって六代会長として願い出、平成元年三月二十六日お許しを頂く、尚任命願いと共に、神殿建築願いをもお許し頂き、平成元年六月二日多摩宮分教会神殿建築落成。大教会長様祭主の下、こ者宮本 雄 青木 博 谷澤安道 三役員により鎮座祭、翌三日多摩宮分教会神殿建築落成六代会長就任奉告祭を勤めさせて頂いた。

 

多摩城分教会四代会長お運び

 多摩城分教会三代会長尾島ブン老齢のため辞任、四代会長に武八初代会長中島マツ刀自の生前中の約束に従い、中島保男氏を推し願い出、平成元年八月二十六日お許しを頂き、九月三日大教会長様臨席の下、多摩城分教会四代会長就任奉告祭を勤めさせて頂いた。

 

大教会創立百周年記念祭執行

 平成元年十一月二十九日、真柱様、奥様 善司様 随行に喜多秀義

平野知一 田中 勇三本部員のお入り込みを頂き、盛大に勤められた。当日の武宮前会長のご用を列記すると、渉外 真柱様ご送迎 御揮毫 来賓接待 祝賀会(来賓席)司会であった。御揮毫は、前真柱様「報恩」 善司様「感謝」と御揮毫下さった。武宮前会長は助け掛主任という上から、島ヶ原全部内教会に対し、是が非でも全教会が実績零を無くそうとお願いし、百周年を目指して部内を督励し鬼とも蛇ともなって勤め「先生の顔を見ると別席者は」と顔全体否、身体全体がものを言っていたと、言われていたが百周年の前日、島ヶ原全教会お陰を持って零解消させて頂いた。職務とは言え親神様 教祖 霊様のご加護を頂き勤めさせて頂けた事を申し上げ感謝、感激以外何も無し。

 

多摩城分教会移転について

 平成三年十一月十日 大教会長様、多摩城分教会がやむを得ず移転を余儀なき事として、移転予定地の武蔵村山市大南三ー二七ー八を、視察して下さった。十一月十八日 多摩城分教会やむなく無断にて移転予定地の武蔵村山へ、谷澤安道代行にて、お目標様を御遷座申し上げる。

かくして平成四年一月二十六日多摩城分教会の移転を願い出、お許しを頂いた。二月九日御所見分教会長様、大教会長様名代として多摩城分教会移転奉告祭を勤めさせて頂いた。

 

武宮分教会創立八十周年記念月次祭を執行

 平成四年二月十五日創立八十周年に当たる月次祭を、部内よふぼくに呼びかけ多数の奉仕者、参拝者の御守護を頂き盛大に勤めさせて頂いた。記念祭を前にして神殿の畳入れ替え、おみすも本絹の物に取り替え、よろづよ八首の額も前会長筆にて新調す。祭典後前会長より武宮の「道すがら」を一時間十五分に亘って史実に基づきお話有り、始めて聞く道すがらに皆感銘す。平成4年5月31日80周年記念祭も祭典を賑やかにだけでは申し訳ないと、実動有ってこそ先輩の方々にも顔向けできると、此処に日を改めいて創立80周年記念大会を開催する事となった。薄曇りの日であったが実動の記念大会には絶好の日和、午前十時おつとめ、総立ちにてよろづよ八首、会長挨拶、御所見分会長様の祝辞終わって前会長作詞の奉祝歌を全員で歌い「八方へ伝え歩こう親神様の名を」を合い言葉として「天理王命」の、のぼり旗を先頭に、にをいがけに出発、御所身の若先生「青木真司」太田一男、山下清は路傍講演を実施、その他は、各教会所在地方面即ち、武宮は二宮、武八は小川方面、武山は野辺方面、武平は二宮新開地方面、多摩宮は平沢方面、多摩城は森山方面へそれぞれ神名流しににをいがけに勤めさせていただき、十二時半お礼参拝、昼食は模擬店にて、寿司屋、焼きそば、焼き鳥、ドリンク、冷奴、モツニ、アイスクリーム等7点一斉に開店、皆それぞれ引き換え券にて舌鼓を打つ、特設舞台ではカラオケ、踊り、民謡等見物しながらの昼食、お楽しみくじを中間と終わりに行い皆大喜びのうちに、実働の記念大会を午後五時終了

武宮創立80周年奉祝歌(天理教宣伝歌の節で)

  1. 武宮生まれて80年     元一日の旬が来た

親を迎えて輪になって   心晴れ晴れ祝おうよ

2, 天竜の流れの島ヶ原    伊賀の山超え滋賀の地に

  相模を越えて武蔵野に   つとめと さづけの渦を呼ぶ

3, いばら苦労を踏み越えて  たすけ一条の荒道を

  遺した先人(ひと)(ひと)の心意気     今も我らの胸を打つ

4, 武蔵野国の二宮に      撒かれた天理の御教は

  今では名称六ヶ所に    陽気暮らしの道をとく

                   世界たすけの道をとく

 

 

 

 

 

 

 

一ヶ月に三名の重要人材を出直しさす

 平成七年一月四日 武山分教会長夫人太田富子姉 五七才にて突然の出直し又十日後の十四日 武宮分教会役員 岸峯進氏五十一才ドンド焼きの準備を終わった処で、道路上にて出直す。その十日後の二十四日武信布教所長山下ノブ姉 九十六才にて出直す。武宮始まっての事、一ヶ月に三名の神葬祭、なんとしても武宮の者として一人一人が真剣に一からやり直して勤めさせて頂く事を、心に定め通らせて頂く事を誓い合った。

 

 

 

 

 

 

 

bottom of page